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スチューベンビル(Steubenville)は、アメリカ合衆国オハイオ州東部、オハイオ河畔に位置する都市。同州ジェファーソン郡の郡庁所在地である。人口は18,659人(2010年国勢調査)〔American FactFinder . U.S. Census Bureau. 2011年2月4日.〕。オハイオ川の対岸、北東に位置するウェストバージニア州ウィアトンと共に形成している、ジェファーソン郡を中心に3郡にまたがる都市圏は124,454人(2010年国勢調査)の人口を抱えている〔。より広域的には、スチューベンビルは約60km東に位置するピッツバーグの広域都市圏に含まれている。 市名は1786年にこの地に建てられた、フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュトイベンの名を冠したスチューベン砦に由来している。現在では、スチューベン砦は復元され、一般公開されている〔History of Fort Steuben . Historic Fort Steuben. 2015年8月9日閲覧.〕。やがて市はオハイオ川の河港の街として、そして鉄鋼の街として、20世紀前半まで栄えた。しかし20世紀も後半に入ると、ホイーリングやウィアトンなど、近隣の鉄鋼の街と同様に、市は衰退していった。市の人口は1940年のピーク時の約1/2にまで減少した。しかし、2010年代前半、スチューベンビルの地下には2層の大規模なシェール層があることが判り、今後はシェールガスが産業と雇用をもたらすものと期待されている。 市内の至るところに20以上の壁画が描かれていることから、スチューベンビルは「壁画の街」と呼ばれている〔Steubenville Murals . ''Discover Ohio''. Ohio Development Services Agency. 2015年8月9日閲覧.〕。また、スチューベンビルはオハイオ州内に6つあるカトリックの教区の1つで、州東部および南東部を統括するスチューベンビル司教区の本山が置かれている〔Home . Diocese of Steubenville. 2015年8月9日閲覧.〕。同教区はフランシスコ会第三会系のフランシスカン大学スチューベンビルをはじめ、同教区管轄下の小学校・中学校・高校を1校ずつスチューベンビルに置いており〔Schools . Diocese of Steubenville. 2015年8月9日閲覧.〕、スチューベンビル市学区の公立学校と共に、スチューベンビルをオハイオ州東部における教育の中心地たらしめている。 なお、スチューベンビル市の南には、同名のスチューベンビル郡区が隣接している。両者には直接の関係は無い。 == 歴史 == 1786年、大陸軍に代わって結成されたばかりのアメリカ合衆国陸軍第1連隊は、北西部領土の地図作成のために派遣された測量者の防護を目的として、この地で砦の建設を始めた。砦は翌1787年2月に完成し、独立戦争において将軍ジョージ・ワシントンの下で大陸軍の訓練において功績を挙げたフリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュトイベンの名を冠してスチューベン砦と名付けられた。やがて砦の周囲に町が発展し、砦の名を取ってスチューベンビルと名付けられた〔。この町は、ときどきフランス語の「美しい」と英語の「街」を組み合わせたフラングレで ''La Belle City'' とも呼ばれた〔Andrews, J.H. ''Centennial Souvenir of Steubenville and Jefferson County Ohio 1797-1897''. Steubenville, Ohio: Herald Publishing Company. 1897年.〕。測量が終わると砦は一旦は放棄されたが、その後1797年にジェファーソン郡が設けられると、その郡庁がスチューベンビルに置かれ〔、ボルチモア出身の測量者ベザリール・ウェルズとピッツバーグ出身の弁護士ジェームズ・ロスの2人によって街が区画された〔。 1803年3月1日、連邦17番目の州としてオハイオ州が成立した〔Stockwell, Mary. ''The Ohio Adventure''. p.88. Layton, Utah: Gibbs Smith. 2006年. ISBN 9781423623823.〕。1817年にはスチューベンビルで製鉄が始まっていた〔Scherrer, Phyllis and Samuel Davidson. Steubenville, Ohio: Portrait of a rust belt city . ''World Socialist Web Site''. International Committee of the Fourth International. 2013年4月8日. 2015年8月9日閲覧.〕が、19世紀前半は、スチューベンビルは主としてオハイオ川の河港の街で、郡内の後背地は小さな村や農場で占められていた。やがて1851年、スチューベンビルは市制を施行した。1856年には、フレイジャー・キルゴア社がスチューベンビルに先駆けとなる製鉄所を建て、スチューベンビル石炭鉱業会社が操業を開始した。19世紀も後半になると各所で鉄道の建設が進み、ピッツバーグとシンシナティ、シカゴ、およびセントルイスとを結ぶピッツバーグ・シンシナティ・シカゴ・アンド・セントルイス鉄道の駅がスチューベンビルに置かれた。 交通網の確立は鉄鉱石の運搬を容易にし、鉄鋼業および石炭産業の発展を促した。20世紀初頭の最盛期には、スチューベンビル地域の製鉄所は何万人もの労働者を雇い、さらに周辺の炭鉱は高炉の燃料となる石炭を掘る坑夫を何千人という単位で雇っていた〔。また、鉄鋼と石炭の他にも、製紙、ガラス、窯業といった産業が発展した〔。 しかし、20世紀も後半に入ると、アメリカ合衆国の鉄鋼業の地位低下、それに伴う全米的な経済構造の変化によって、鉄鋼業に大きく依存していたスチューベンビルの地域経済は崩壊し、市は急速に衰退へと向かった〔。1940年に37,651人を数えたスチューベンビルの人口は、1970年には30,771人、1980年には26,400人、1990年には22,125人と、十年率10%を超える減少を続け、2000年には2万人を切って19,015人にまで減少した。都市圏でも、1980年代から2000年代にかけて、ウィアトン・スチューベンビルは全米のどの都市圏よりも大きな人口減少幅を示した〔Barringer, Felicity. As a Test Lab on Dirty Air, an Ohio Town Has Changed . ''The New York Times''. 2006年9月27日. 2015年8月9日閲覧.〕。 しかし、2010年代に入ると、スチューベンビルの地下にはマーセラス、およびその下のユーティカの2重のシェール層があることが判った。スチューベンビルは2010年時点で15.0%もの失業率を記録したが、今後はシェールガス関連産業による雇用の創出が見込まれている〔Vega, Cecilia, Sarah Netter and Maggy Patrick. Boom Town: What Brings Thousands of Jobs to One Ohio Town? ABC. 2011年10月18日. 2015年8月31日閲覧.〕〔Bell, Jeff. Shale boom: Steubenville catching crest of shale's economic wave . ''Columbus Business First''. 2012年7月20日. 2015年8月31日閲覧.〕〔Gough, Paul J. Steubenville, Jefferson County poised for an upswing: panel . ''Pittsburgh Business Times''. 2014年11月19日. 2015年8月31日閲覧.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「スチューベンビル (オハイオ州)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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